2016年3月2日水曜日

無明から真人へ 3


<氣>が墨の妙技を活かす
 修行の合間、墨絵を描いている最中に、忽然として『ぼかし技法』のヒントを掴んだのです。否、これはもう<氣>の妙技というレベルで具体的な説明となると難しく、例えるなら、突如として筆先がエアーブラシに化け、すみの粉末を一パーセント単位で微調整可能にさせるべく奇跡のような新発見の意匠そのものでした。
 それ以降、水墨画の代表作品の模写を繰り返し描き込みました。
ーこれで、やっと自分独自の水墨画が描ける。これに拠って陰徳が積めるかも知れない。ー
 昨年の四月末日。まるで子供のように小躍りしてしまいました。傍観すると、<勝手に陰徳だ、利他行なのだと宣っているが、一方的な思い込み以外の何ものでもないぞ>と厳しいお叱りを受けるかも知れませんが、しかし、今の私にはこれしか、ご老師の恩に報いる手立てがありません。否、これだけでは不十分であることは承知の上です。なぜなら、決して償うことのできぬ大きな過ちは、もう二度と元には戻せないからです。この思いを忘れず、今できることのみを精一杯やり切ること。
 それが自己の贖罪であると肝に銘じ、最期の日まで描き切る以外にありません。それ以上でもそれ以下であってもならないと。
 後日、漸く構図が決まりました。ー水墨画の故郷ーとして、よく題材に出される景勝地「黄山」です。・・・・・・果たして勝手に玉龍寺に墨絵を送りつけ、ご老師からどのような評価と印象を与えることに成るだろうか。と少しの不安と共に恐縮し乍ら、一通の書簡を添えて送ることに致しました。
 これが機縁となり、一人一寺運動に活用されることを心から祈念し、ご老師の宣揚される純禅の大法が、此の世に拓かれることを願って・・・・・。


<完>


2016年2月25日木曜日

無明から真人へ 2

1はこちらから。


佛師を断念、再び墨絵を
 その後、本物の水墨画に近づくべく再挑戦したのですが、元の木阿弥で、せめて筆ペンの墨彩画と呼ばれるまでに至れないものかと模索中の折、「動禅」と言う或る佛師の半生を描いた本を読み、衝撃的な感銘を受け『これだ!』仏像を彫ることが自分に出来る陰徳なのだ、これしかあり得ないと思い立ち、最期の日まで、家族を失った多くの人たちのため、一体一体こころを込めて掘り続けよう、ご老師の弟子として、禅者として佛師を目指そうと心に誓ったのですが・・・・・・。(因みに盤珪禅師も仏像を彫っています。)
 刑務所でさえ、木工作業場が在るのだから当然、当局は個別の彫刻くらいは大丈夫だろうと安直に思い込んだ私は、当局にお伺いして見ると「過去に前例がない」と一蹴され、取りつく島も無い回答にまるで奈落の底に突き落とされ、呆然自失となる始末。
 もはや墨絵を描く以外に道は拓かれん!と覚悟を決めた私は、それから数日間、坐禅と断食、ムドラー(ヨガ)と調気法を 行じ乍ら、ご老師の法話を反芻し、釈尊やダルマ、その他多くの祖師方の悟境に促されるよう仏法の大意とは何かを思索し、菩薩道の大悲心に思いを馳せ、あらゆる概念を空性に還元させるべくサマディーへと自らを追い詰めて、そして捨て切りました。
 これに近い感覚を十八年前、体験しました。
 幾ら目を凝らして見ても物の輪郭すら判らぬ真暗闇の独房修行五十九日間(※3)。密閉された三畳余りの部屋で二十四時間の極限修行。一日一食、体感温度は40度を超えていたでしょう。幾度も意識が飛んでしまい、いま自分は何処にいるのかも分からぬ感覚と五官を感知する意識まで無くなり、時間が消える超絶の域に三昧へと移行するハッキリとした拡がりの実感があるだけの世界です。
 調気法も一呼吸のサイクルで最高十八分のときもあり、建物全体と意識が繋がってしまい、各部屋で誰が何を話しているかが観えてしまう。又、50メートル先の家の時報やラジオがまるで目の前に有るかのような超感覚体験等、多くの神秘体験が通り過ぎたものでした。
 そして、三十日目の頃、坐法を崩さず九時間もの三昧に没入できると同時に、その長時間が一瞬でしかなかった感覚。このとき初めて時間の概念が、ひとつ氷解したのです。
 後日、突然にして遺書を書け、との狂気をも絶する宣告を受け、ーもう、死んで涅槃するしか解脱の道は残されていないのだーと覚悟を決め、教団と養父母に一通ずつ遺書を書きました。
 修行中に死ねたら本望だと、胸を張っても、思わず字が霞んでしまいました。それ以降、死と対峙する命がけの修行でした。そして五十九日目にして修行の成就と告げられたのです。
 成就と言われても私にはよく判らず、単に幽体離脱や前世のような幾つかのビジョンを垣間見て、宇宙に放り出されたり銀河の渦を俯瞰して光の中に没入するような様々な神秘体験の集大成。そして六神道と称される幾つかの体験があったのみです。
 いまでは、それが悟りや解脱でないのはわかりますが、しかし当時は<無我>を知らずして『忘我の境地』に没入していたことは間違いありません。
 どんな宗派であれ、厳しい修行を行えば、誰でも必ず神秘体験が得られて当然です。ところが<空観>と<無我>の理法に無知な教団は、通俗信仰の常套句である六道輪廻のカルマ説を教義と掲げます。故に修行で得られた神秘体験の全てを教祖のお陰だと盲信するのです。前世から受け継がれた教祖の絆と信じ、カルマの因縁に支配される信仰心。このドグマこそ、間違いの始まりなのです。
 ーいう迄もなく、私自身がその愚かな見本でした。ー
 そもそも禅を無視して来た教団ゆえ、釈尊が六道輪廻を真っ向から否定した史実に気付かず、まして空無の理法を灌頂伝授(イニシエーション)に掏り替えてしまう指導者の高慢さが、過った信仰心を煽ってしまい、多くの若者達の心に植え付けてしまったのです。(盤珪禅師はカルマ説を強く否定しておられます。)
 今現在、禅の入口に踏み込んだ私は十八年前とは全く違う境地です。死と対峙する環境下に在る状況は同じでも、空性の理を掴んだいま、六道輪廻や前世のカルマと云う<まやかし>に囚われる実体は何も有りません。数々の神秘体験も悟達に至るプロセスの一貫と解かれば、それに執着する意味は当然、失くなります。
 修行に終わりはありません。常に捨て切り空じてこそ禅の要。これからは、人知の妄念に立ち向かい、人格を養う菩薩道の階梯が無限に用意されているのです。
 多分、過去の神秘体験は唯識の大円鏡智の入口ではないかと存じます。そして昨年は、生死一如と因果一如の理法と共に、平等性智の大悲心に、一瞬ではありますが感得できたのではないかと勝手に思い込む不遜な愚生であります。


3へつづく。


※3・・・宮前さんが過去に行ったオウム真理教での修行。以後「教団」=オウム真理教、「教祖」=麻原彰晃

2016年2月24日水曜日

無明から真人へ1

玉龍寺発行「正偏智 第13号」平成16年9月1日発行 に「無明から真人へ②」として収録されたものを、宮前一明さんの了承を得て順番に公開させていただきます。
宮前さんが、獄中でなぜ絵を描くようになったのかという気持ちが分かっていただけるかと思います。


筆ペン一本

 ご老師(※1)が帰国されるまでの二ヶ月半、とにかく禅者の道を志す下賤な弟子として、末席の片隅に置かれるだけでもいい、そして自分にできる陰徳の贖罪を何かの形で顕して行きたい。
 それともう一つ、ご老師の講話に触れた途端、忽然として覚証した気づきの体験とともに、18年前、狂気と呼ぶべき極限修行で得られた数々の神秘体験が、果たして<見性>の遠因と云えるのか否か、これらの見解を筆に託すことではないかと思い至りました。
 ところが、それ以前の悩みとして、無収入の私にはお布施ができず、今の環境下では玉龍寺に赴いて作務をしようにも為す術がないのです。
 一体どんな形の陰徳と利他行を果たせばよいのか、これと言った能力も何も無い私が、熟慮の末に辿り着いた結論が、墨絵だったのです。勿論、禅機画と呼ぶような大層なものではありませんが、墨絵に至る迄の経緯は確かに、大きな機縁に導かれていたのではないかと、そうおもわずには居られぬ事象の連続でした。
 二年前、平和団体に投稿を続けるなか、或る日、面会の席で「筆ペンの墨を水で薄めれば、水墨画が描けるんじゃないの」との友人の発言に端を発した私は俄然、物の怪に取り憑かれたように一心不乱の挑戦が始まったのです。
 極細の筆ペン一本で、どこまで水墨画に近づけられるか、約二週間、コピー紙の上に墨の濃淡を五つに分けて描き比べたものの反面、淡くなるほどに水分が多く渇くのに数時間あまり、失敗のときは決まってシワ寄ればかり。画仙紙さえ使用できれば何んでもないのに、当局(※2)では購入不許可。それでも五色の濃淡で描いた作品は、それなりの評価を受け、自分なりに安堵したものでした。しかし、本物の水墨画は、叙情的な陰影と濃淡の妙技を醸し出せ、特に、ぼかしと滲み技法には気韻生動・幽玄霊妙の世界へと誘われ、いつの間にか、吾を忘れます。
 それに比べると、ベタ塗りの細い筆ペンとコピー用紙では、ぼかしや滲みを描くのは無理、物理的に不可能だと漸く気づいたのが一ヶ月後でした。
 そんな作品でも、或る出版社の社長夫婦が、新鋭の水墨画家・小林東雲先生の個展に赴かれた折、私の作品を数点紹介されたのです。
 すると先生は、「意外でした。こんなにやさしい画を描く人物に、あのような罪を犯させるに至ったことを考えると、憤りさえ感じます。」と絶句され、「このような繊細な感性を持っているが故に、言われることをそのまま信じて犯行に及んでしまったのでしょう」と、とても残念だとつぶやかれ、「何もアドバイスするものはありません。とても素晴らしいので、このまま描いて行かれた方が良いです。」との太鼓判と共に、早々と篆刻印(てんこくいん)を彫ってくださり、新刊の書籍にサインと地蔵菩薩を描かれ、『自灯明・法灯明』のお言葉も添えて戴き、「あの事件がなければ、この方は素晴らしい社会貢献をする方でしたね。」となんども残念がっていたという話しを後日談として聴かされたとき、おもわず、私にはもったいないお言葉と恐縮し乍らも、いつの間にか涙が頬を伝い、返す言葉が見つかりませんでした。


※1・・・宮前さんが獄中で入信していた禅寺、玉龍寺の宮前心山老師のこと

※2・・・宮前さんが収監されている東京拘置所

2015年12月29日火曜日

カナリヤの詩アーカイブ

「カナリヤの詩」アーカイブに、宮前一明さんの手記も載っていますのでご紹介します。
どうぞ合わせてお読みください。

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/20150409/archive

2015年12月27日日曜日

解脱-2

《宮前さんの手記を元に、宮前さんの出家後の経緯を記します。》



解脱-2


 麻原は、岡﨑と仲の良かった最古参弟子であるS氏を、「奴は阿含宗のスパイだぞ。」と決めつけ、その後S氏は脱会してしまうということがあった。岡﨑はその出来事から、自分にもスパイの疑念がかかっているのではないかと苦しんだ。独房修行中、「自分はオウムには必要のない存在ではないか」と疑心暗鬼になり、修行を断念することを考えたこともあった。
 その旨を麻原に問い糺(ただ)すと、麻原はキッパリと否定をした。麻原が弟子たちに、被害妄想的な先入観をもち、区別していたのは確かと言える。


 岡﨑は疑念が晴れて、再び修行に励んだ。いつの間にか、長氣法(ヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナーヤーマ)が一回のサイクルで最高18分(プーラカの保息を7分以上+レーチャカの保息を5分以上)に達するようになった。
 その頃、麻原は岡﨑に、遺書を2通用意するようにと、石井久子を寄越して指示した。石井の説明によると、オウム真理教と両親宛の2通で、もし修行中に死んでも、それはオウムとは関係なく、自身の意思で行う個人的な修行の末の事故であるという内容だった。もとより、麻原とオウムに責任の及ばぬための書面作成といえる。
 岡﨑は、それでも解脱が叶うならば、死んで涅槃しても、本望だ、と覚悟を決して遺書を書く。
 そして、59日目の朝、岡﨑は、ラジャス、タマス、サットヴァの3グナを見たこと(※)で、麻原から成就を認められた。


 麻原は、教団の機関誌「マハーヤーナ No.3」の巻末特集で、岡﨑の解脱について「成就前と今とを比べると、心のプロセスは全く変わっているよ。解脱というものの素晴らしさを、何よりもそういったところに感じるね。これからは、救済という大きな目標に向かって、一層精神してほしいね」と述べた。また、麻原の単行本「マハーヤーナ・スートラ」には、「グルに対する真が無くとも、意志が強ければ修行だけで成就することができる例だろう。実は、彼はグルに対する真がなかったのだ」と、「マハーヤーナ」とは真逆のことを語った。


 これは、上祐に続いて多くの弟子たちが成就を達成したことで、麻原は安堵し、いつまでも人気が高い岡﨑に対する「カルマ落とし」も含めた「マハームドラー」(試練)であり、修行の一環であると、麻原は岡﨑に告げた。麻原によると、前世で既に成就しているものはグル無しでも、自己の意志のみで解脱できるのだという。
 麻原は、時に説法中で岡﨑の秘めた神通力の具体例を示して褒めたり、一番弟子であることを度々話すこともあった。その一方で、麻原は、岡﨑の特殊能力に嫉妬したように、足を引っ張るような仕掛けに嵌めていた。
 麻原は、大師会議や公の場で、岡﨑を褒め上げたり、貶したりしていた。


「解脱」おわり。




※瞑想中に見ることができるとされる、光のようなもの。

2015年12月22日火曜日

解脱-1


《宮前さんの手記を元に、宮前さんの出家後の経緯を記します。》

解脱-1

 1988年7月25日、岡﨑はラージャ・ヨーガにて麻原から成就したと認められる。5月28日から59日間にわたり、連日20時間前後の真っ暗闇の独房修行の結果であった。

 独房修行は、岡﨑の前に、2人の弟子に試され、失敗した後だった。その弟子とは、杉本繁郎(地下鉄サリン事件の無期懲役囚)とH氏だった。

麻原は2人に対し「解脱するか狂うかの修行メニューだぞ!」と厳しい修行プログラムを課した。しかし2人は、同部屋に間仕切りを立てて一週間後、「もうここから出して下さい」「これ以上は無理です」と悲鳴をあげ、修行中断を懇願、麻原は落胆した。

 そして急遽、麻原は岡﨑を呼んで、「30日も籠もれば、解脱できるだろう」と彼ら以上の厳しいプログラムを告げた。当時岡﨑は、弟子たちの中ではクンバカ(保息時間)が一番長く、ESP能力(超感覚的知覚)も突出しているとされ、オウム出版での功績も奇跡的な数字を残していたため、成就に必要な功徳は十分と踏まえられていたようだ。岡﨑は独房修行に選ばれたことを歓んだ。

 その頃、岡﨑に賛同する最古参の弟子たちが何人か脱会し、さらに麻原が前世の息子だと可愛がっていたS氏(岡﨑の親友として地裁に証人出廷した人物)までが女性サマナと一緒に脱会。さらに、仲の良かった大内夫妻と妹の早苗が、麻原の指示で大阪支部開設の為、離れ離れとなり、岡﨑の周りに心を許せる最古参の法友は、飯田エリ子と山本まゆみのとなっていた。

 元・阿含宗信者や精神世界を渡り歩いて来た最古参の弟子たちは、麻原が宗教法人を切り出した頃から脱会する傾向にあった。そして書店で初めて麻原の本と巡り逢い、入会・出家をする宗教遍歴のないタイプの弟子たち(村井秀夫夫妻・上祐史浩・杉浦兄弟・岐部哲也・鎌田紳一郎・遠藤誠一など)が残ってスタッフに加わることとなった。当時は、以前の修行サークルの雰囲気より、ロータスビレッジ構想(修行者の理想郷)を礎に、”日本にはないホンモノの出家集団を宗教法人”としてアピールする転換期のスタートラインにあった。

 岡﨑は独房修行の10日目から眠れなくなり、麻原にそれを告げると「それは佐伯、私に対する帰依が全くないからだ」と言われてショックを受ける。さらにその後、麻原からなんでもよいから書いたものを提出するよう言われ、悟った雰囲気の文章を提出。世話役のO氏はそれを見て悟っていると感心したものの、麻原に電話の向こうで「それはエゴだ」と言われ、再びショックを受ける。

 麻原がこのように、弟子の自我を潰して「無私」の入り口へと導くやり方は、以前麻原が解脱の指導を受けた雨宮第二(ダンテス・ダイジ)からの影響が強く、間違いなく禅宗系の「無」を麻原流に色付けし、自我の崩壊からグルへの帰依へと意図するものだった。それは、「空」の認識を無視する指導法だった。

 当時、岡﨑のグルへの帰依が足りない訳ではなかった。なぜなら、多くの最古参の弟子たちが麻原から離れて行くなか、岡﨑は残り、また、ほかのスタッフを鼓舞し、上祐史浩を中心とした新しいスタッフ陣に対しても懇切丁寧に一から指導することで、信頼を授かっていたからだ。

 その証拠に、岡﨑が大魔境(※)に陥り、オウム脱走後自首し死刑判決を受け、その確定日が近づく間際、古参弟子(杉浦兄弟たち)を含む40名近くのサマナたちが、昔(当時)のお礼と感謝の念と称して面会を続けていた。三女アーチャリーが、電報や面会で岡﨑に相談を請う事もあった。


つづく。

※「魔境」とは、分かりやすく言えば、禅僧が修行中に、本当は心身のバランスが崩れて幻覚症状に陥っているだけなのに、あたかも悟ったかのように、すばらしい境地に達したかのように、勘違いしている状態です。

ブログのはじめに。

このブログでは、死刑囚の宮前一明さんが獄中で書かれた手記を公開します。
宮前一明さん、1960年10月8日生まれ。オウム真理教(オウム神仙の会)の元古参幹部。
事件当時の苗字は佐伯、裁判当時では岡﨑でした。
坂本弁護士事件をはじめ、在家信徒溺死事故による死体遺棄事件、出家信徒殺害事件に関わりました。
現在は、事件を深く反省し、獄中で贖罪の日々を送っています。
宮前さんが、どのような人生を歩み、どのような考えを持っているかを、少しでもわかりやすく伝えるために、このブログを立ち上げました。

オウム真理教事件の被害者の方々に、改めてお見舞い申し上げます。
オウム真理教事件の被害で亡くなった方々に、改めてご冥福をお祈りいたします。
また、教団の一刻も早い解散を望みます。

メールはこちらまで。 koumiyamae0404@gmail.com